立教189年
2026年3月 第301号
常時の活動
芦野分教会長
教祖百四十年祭がつとめられました。この年祭は、従来の年祭以上に、十年後の教祖百五十年祭、その翌年の立教二百年という先を見据えた年祭だったように思います。ですから、終わってやれやれという感じになってはいけないように思うのです。
諭達第四号の「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである。」とのお言葉から言えば、まさにこれからなのです。
続いてこそ道。目的地に続かなければ道は用をなしません。人も物も通らないのです。親親がつないでくださったこの道を、私たちの所で行き止まりにしてしまっては、もったいないと思いませんか。せっかく親親が積んできてくれた徳を、さらに大きくして次代に託していかなければならないのです。
年祭活動三年千日は終わりました。いわば非常時から、常時の活動に戻るわけですが、常時の活動とは、基本に立ち返るということだと思います。私たちにとって基本とは、「かしものかりもの」であり、「教祖ひながた」です。しっかり、基本に立ち返って、なるほどの人となり、子や孫に陽気ぐらしの手本を示してゆきたいものです。御苦労の道中も常に明るくいそいそとお通りくだされた教祖に一歩でも近づかせていただいて、身上や事情の中でも心を倒さず勇んで、心通りのご守護というものを、たすかる姿というものを、示していかなければならないと思います。
お父さん、仕事大変だったのに、いつも勇んでたな。おばあちゃん、からだ不自由になっても、やさしかったなあ。こんな姿が受け継がれていくのです。その上で、普段から教えをしっかり伝える努力、これが何より大切なのだと思います。
私たちは布教を何か特別なものと思ってはいないでしょうか。何も戸別訪問や路傍講演だけが布教ではありません。日常生活の中で、教祖ならどうされただろう、かしものかりものの教えで思案すればどうなんだろうと考え、実践し、そのことを周りにも伝え、提案していく、これも立派な布教だと思うのです。縦の伝道に一番力を発揮するのは、このような姿勢だと思います。
非常時から常時の活動に戻るということは、これからは常時の活動の内容が問われると言うことです。日常生活の中で、教えを実践し、まず身近な人に伝えていく、これが何よりの常時の活動であると思います。
最後に十年前の真柱様の教祖百三十年祭祭典講話の一節です。
「今日までの動きが途切れてしまうことのないように、今後の諸活動に活かしていくことが肝心だと思うのであります。百三十年祭をつとめ終えて、これからの歩み方を思案するとき、何にも増して、道の将来を担う人材を育成する必要性を強く感じるのであります。」
芦野分教会報「あしの」430号より
トマトニュース
日野公園墓地ひのきしん
3月4日(水)
春の法要に向けて、例年通り「横浜刑務所受刑者墓地」の清掃ひのきしんに参加しました。
ひのきしん前後で見違える程綺麗になりました。
日曜参拝
3月15日(日)
「教会をキレイに」とみんなで窓拭きをしました。
大人も子供も雑巾片手に普段は行き届かない所までお掃除できました。

しあわせの道しるべ#131
小才は縁に気づかず、
中才は縁を生かさず、
大才は袖すり合った
縁をも生かす
— 江戸時代の剣豪 柳生宗矩の言葉
